2005/06/24

6月15日のコラム

このcolumカテゴリーは、細々と続けている個人ホームページのトップページに、なんとなくなんか文章を書こうかと思って、書いている文章をそのまま消すのも勿体ないので、このBlogに転載して載せます。

なので、重複して読むことになる人も多数だと思います。そのへんはお許しください。

では、そういうことで。





'05.06.15. 

  さて、そろそろ文章を書いていかないと、胡散臭さが満ち足りてくるようになってしまう。テーマは、特にない。最近よく思うのだけど、自分はなんでこういう形で文章を書き(書くという表現が正しいのかは分からないけど)、こういう形で発信しているのだろう。飽きっぽい性格にしては、なかなかどうして、もうすぐこのホームページも丸3年を迎えて、4年目になろうとしている。

  怠惰に続けているわけだが、それでもどうしてまだ続くのだろうか。自分でも不思議。文章を書くのが好きなわけでも、巧みに文章を書けるわけでもなく(むしろ文章の稚拙さは度々指摘されていた)、積極的に書き始めたわけでもないのだが、そういえば、初めは文章を書き続けることで、少しでも上達すれば、という思いもあったのかもしれない。果たして、結果はどういうことになっているのでしょうね?

  思うに、ここで何かを-特に日常のくだらない些細なこと-を発信しているのは、一人でその体験の感想を所有していてもしょうがないけど、でも他人にわざわざそのためだけに話すほどでもない、といった類のものを勝手に独り言のように言いたいがために、この場で文章として、発信し続けているのではないかなと思う。

  もう一つ、実際に俺と話したことがある人はなんとなく雰囲気で分かると思うけど、そういう体験って何人にも同じ話をするのが億劫なんですね。最初のうちは話したくてうずうずしているけど、何人にも会ううちに、また同じ話をするのか、と気が滅入ってしまうんです。そういうわけで、わざわざ話すまでもない些細なことは、勝手にどこかでぼやいていて、それを見てくれた人は、「ああこいつはこういうバックグランドがあって、それでこの話につながるんだ」とか、気を利かせて、気付いてくれたら、話がスムーズに進むわけですね。

  実際のところ、人と会話をするときに、そういう類推であったり、人の話を聞いている中で、なんとなく全てを言わなくても分かってくれる人は非常に心強いわけですよ。めんどくささがない、という点においてね。そうは言っても、人の話を聞くときに、常に“気を利かせるモード”をオンにできるわけでもなく、「なんでお前の話なんぞに“気を利かせるモード”をオンにしないといけないんだ?」と思われても困るので、このへんにしときます。

  ここまで書いてみて、・・・ふぅ相変わらず稚拙だなぁ。ここまで読み進めた人は偉い!とか意味の分からないことを言ってみたり。

  最近、文京区がやたら騒々しい気がする。先日、自転車で家まで帰っている途中にパトカーと覆面パトカー(!)が住宅街を走っているのを見たし、昨日も覆面パトカーを見た気がする。今日も東大の農学部の端っこにある交番の前に4人くらいお巡りさんがいた(まあそれはそういう時間に出くわしただけ、という気もしないでもないけど)。

  文京区って言うのは、なかなか不思議な場所のような気がする。だいたい山手線の真ん中あたりに位置して、丸の内や大手町にも近いし、西の新宿にも池袋にも近い。ちょっと足をのばせば、簡単にどこにでも行けるようなところに位置している。そのくせに、文京区っていうのは、不思議な東京の香りが残っているのだ。丸の内のような都市でもないし、浅草のような下町の香りもしないし、なにやら不思議めいている。

  そんな文京区をじっくり見て回るのは実はおもしろい行為で、根津や谷中や学校からの帰り道でもちょっと通りから外れたところを通ってみると、実におもしろい。歴史を感じる、というのはあまりにも当たり前のコメントだけど、新旧のバランスのとり方が独特、だと感じる。古くて、醤油のような色になってしまった壁の家の隣に、最新の奇抜なデザインの家が建っていても、それはそれで“アリ”なのである。そんな不思議な感じのする文京区。年配の方々がよく文京区を訪ねているのも、なんか納得できますね。


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