世の中ちょっと、検定ブームみたい。
電車のドア上ツインステッカーに、「日本語検定」についての広告が載っていた。
そうじゃなくとも、英検の人気は落ちているものの、漢検の人気は上がっているらしいし(ちなみに僕は大昔に漢検を取得しています)、ご当地検定なるもの、各地で流行っているみたいだし、Nintendo DSの「ご当地検定」というソフトには僕の上司がここ数日ずっとはまっている。
Nintendo DS関連でいくと、常識力をはかったり、もうなんでもはかってやれ、というご時世。
ちなみに、僕も2週間前ほどにNintendo DSを衝動買いしました。
理由は、受験をした人なら誰でも分かると思う“山川書店”監修の「日本史B」というソフトがあったから。
いやぁ、かなり本格的です。
ほぼ一言一句漏らさず覚えたあの教科書がまさかゲームになるなんてなぁ。
そもそも社会を中心に受験社会を生き抜いてきた僕としては、かなり燃えます。
そういうわけで、やはり任天堂の大人の知的好奇心をくすぐる作戦におもいっきりはまった一味です。
もっぱらやっているのは、先輩に借りた「大人の常識力トレーニング」。
普通のゲームにはあまり興味を示さず、そういうのだけをやっている僕。
もはやゲームではなく、本当にトレーニング目的です。だらだらとできないし。
と、話を変えて、今日検定ブームにおもったこと。
なぜ検定が流行っているのか?
なぜ、漢字だの、常識力だの、そういうことを検定することに人が夢中になるのか。
いや、夢中になるのは当たり前だとして(人の好奇心をくすぶるものとしてね)、なぜそれを満たすのがゲームだの検定テストなのだろうと少し考えてみた。
それってやっぱり“伝える人”がいなくなったからなのかなぁと。
昔は、常識でも、地方の話でも、伝えてくれる人がいたはず。
でも、今となっては、そういうことをだらだら話すのは、面倒がられたり、避けられたりすることなのかもしれない。
少なくとも、僕はそう思うし、そう思った。
周りとの境界を作ることに尽力してきた現代の日本っていうのはなんなんだろう。
それは、個々の建築とか、都市計画とか、そういうことの積み重ねで結局日本社会がそうなってきたということで、個人の態度どうこうではないのではないかと思う。
昔から周りとのコミュニケーションに積極的な人は積極的であったであろう。
そうじゃない人が自然とどうするかっていうところが問題。
なぜ京都の長屋の良さを伝え、リノベーションをする活動を外国の人がやっているのであろう。
よく言われるように、日本文化のよさを、日本人は気がついていない。
気がついていても、それをうまく生かして、未来につなげていこうという積極的な態度を大多数の日本人は持っていないと思う。
僕は日本の家の寿命が短い、というのがすごく嫌いだ。
日本人こそ、モノの良さを見極め、それをどう生かして行くかということに長けていると思うのに、現代の日本で行われている建築(特に個人の住宅)の寿命が短いことがすごく嫌いだ。
結局僕は、外国の、もう何代も親子が住んでいるような家に(文化に)憧れているだけなのだと思う。
いろいろなものが失われていっているということが、いろいろなことから分かるものである。
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